monomiyu3の日記

旅に出て名所めぐりをして、その土地のお酒や食べ物を頂き、温泉につかり、と「物見遊山」の日記です! 備忘録として書きますので随分昔の思い出旅行もあります。

弘前の町

おはようございます。

北海道旅行記、備忘録として書こうと思いつつ、時ならぬ大雨でバタバタしていました。

私の住んでいるところは災害には今のところあってないのですが、それでも毎日、毎日の雨で、多分、地盤は緩くなっているだろうと思います。

本当に何があるかわからないこの頃、備えあれば憂いなしで、気を引き締めなかればと思うものです。

 

さて、北海道旅行記は、無事、青森について、

その日は弘前で泊まりました。

弘前といえば、私の中では太宰治です。

www.city.hirosaki.aomori.jp

 

私が学生の頃は太宰を読むというのがなぜかスマートと思われました、、、なぜだろう???

多分今から思うに、太宰の人生そのものが、欲に執着し、悶え、葛藤の中にあるその人間性が若い私たちの心を掴んだんだろうと思うのです。

尤も、私が太宰の中で一番好きなのは「富嶽百景」で、

しかも「富士には月見草がよく似合う」という言葉が一番気に入っているのですが、、、

この感覚、洒落ている。そうか、富士には華やかなものではなくて、ひっそりとした月見草こそがよく似っている、太宰は感じたのでしょうねぇ。

 

さて、そんな太宰が過ごした弘前。

今回は、半日だけの観光だったので、太宰を偲んでゆかりの地に足を向けるということはできなかったので、また次回に行けたらと思います。

と、いうことで、まずは定番の弘前城に行ってきました。

この日も天気は曇天。

お城から見た岩木山。

眼下に弘前の町が広がります。
弘前は本当に落ち着いた町で、城下町の佇まいがここそこに残っています。

 

さて、

お城の中にところどこ、「弘前城曳き戻し」というポスターが貼ってありました。

www.city.hirosaki.aomori.jp

本丸の石垣工事で、天守閣を別の場所に移動。そして石垣工事をし、完成したので元に戻すというイベントらしいです。

ここに来るまで知らなかった。

私たちは残念ながら見ることはできませんでしたが、テレビニュースで放送され他時、なんだかすごく嬉しかったです!!!

 

今度は、ゆっくりと時間をかけて訪れたいと思ったものです。

函館から弘前へ

長かった北海道の旅。

フェリーで苫小牧につき、

登別、室蘭、洞爺湖、途中キャンプして函館。

楽しい思い出いっぱいに、ついに北海道を後にして私たちはフェリーで青森に向かいました。

函館は最初から最後まで曇天でした。

結局、函館山の夜景は見ることができず、次回のお楽しみにしました。

さようなら〜〜〜さようなら。

 

フェリーは夏休みということでいっぱいでした。

いつもは大きな部屋に2〜3人だそうですが、どの部屋も満員。

青森まで3時間。

出航が11時過ぎだったので、お昼を 船のお店で購入。

冷凍の助六寿司です。。。

それを食べたり、ゴロゴロしたり。

そして、

フェリーは無事青森に到着。

「ただいま」

 

青森もやはり怪しい天気。

曇天です。

私たちは宿のある弘前まで出発。

途中、雨がぽつりぽつり。

うわっ〜〜〜本格的に降るか、と思ったのですが、宿に着く頃には小雨になっていて、

無事、弘前の情緒ある宿に到着しました!!!

宿の中にはおかみさんの手作りのパッチワーク(大作です)がいっぱい飾ってあり、癒されます。

日本国中の武士の「家紋」です。。。すごい。

おかみさんの古い着物とかで作られたそうです。。。

宿は古いのですが清潔でした。

前の週が弘前ねぷた、また8月の終わりは弘前城「曳もどし」というイベントがあるようで、私たちが泊まった時はちょうど真ん中で観光客も少なかったのか、とても静かでした。

 

函館港、摩周丸に行きました

函館港に浮かぶ博物船、摩周丸に行ってきました。

 

ja.wikipedia.org

博物館船ということで、中には船のいろんな説明コーナーがあります。

写真はライトアップした夜の摩周丸です。

 

そして、コーナーの一角に洞爺丸事故の資料コーナーがありました。

ja.wikipedia.org

洞爺丸事故(とうやまるじこ)は、1954年昭和29年)9月26日青函航路台風第15号(洞爺丸台風)により起こった、日本国有鉄道(国鉄)の青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故である。死者・行方不明者あわせて1155人[注 1]に及ぶ、日本海難史上最悪の事故となった。

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洞爺丸事故というのは、名前は知っていたのですが、

その実態は全然知りませんでした。

今回、資料コーナーで当時の新聞や資料、またビデオなどを見て、その事故がいかに悼ましいものか知りました。

胸が塞がれる思いでした、、、

「こんなことがあったんだ、、、」

「嗚呼、、、どうして、台風が来ていたのに出港したのか。。。」

リアルなニュースに目を覆いたくなりました。

「まさか、こんなに台風が急激に発達するとは」

「それにしても、大きな台風だったのだぁ、、、」

とかとか、いろんな思いが交錯しながら、涙がポロポロと出てきます(今も思い出すとウルウル)。

当時の気象予報では致し方なかったのだと思いながらも、多くの犠牲になった方々のことを思って、直接は知らない方々とはいえ、心でご冥福を祈っていました。

そして、

その犠牲の上に、今、海難事故をなくす努力がなされていることを知り、

今更ながら自然との共存をおもうものです。

「今日は防災の日」。

この頃、地震や台風、雨、いろんなことが日本中、いえ世界中で起こっています。

自然の前に、もっと人間は謙虚でなければならないのでしょうね、、、自然からの警告かぁ。

備えあれば憂いなし、と言いますが、毎日、心引き締めてしっかり、生活して行かなければと改めて思います。。。

五稜郭にて

函館といえば五稜郭。

そう、あの函館戦争の五稜郭です。

五稜郭は箱館開港時に函館山に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊。短期間箱館府が使用した後、箱館戦争榎本武揚率いる旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は兵糧庫1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。ja.wikipedia.org

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五稜郭の歴史は会津の白虎隊に似たところがあって、もの悲しい。

曇天の天気になんだかピッタリです。

さて、

五稜郭の公園内にある箱館奉行所。

箱館奉行所の歴史は本町にある旧函館公会堂とともに、函館の人々の精神的支柱だったのだと思いました。

元々は本町界隈に建てられていたのですが、函館戦争で、榎本武揚によって、五稜郭に移転。そして箱館戦争の舞台となり、その後解体。作られてからわずか7年。

その後、2010年に古文書やいろんな資料をもとに三分の一が復元、今に至っています。

知らなかった。

いや、、、いつも思うのですが旅に出てその地を観光すると、ほんとうにいろんなことを知ります。そして知らないことの多さよ、、、と毎回、目から鱗の私です。

今回の五稜郭も、そういう意味では箱館戦争よりは、箱館奉行、そしてそのリニュアルにむけて、いろんな方々が目に見えないところで活躍なさっていたことを知り、鱗が何枚も落ちたものです。

hakodate-bugyosho.jp

箱館奉行所は、日本の北辺防備の拠点として設置された江戸幕府の役所です。当初は箱館山の麓に置かれましたが、内陸の地に移転が計画され、その外構となる五稜郭と共に元治元(1864)年に完成しました。
明治元(1868)年、戊辰戦争最後の戦いとなる箱館戦争の舞台となり、旧幕府脱走軍降伏2年後の明治4(1871)年に解体されました。

存在した期間はわずか7年。
以来、五稜郭は郭内にあるべき奉行所が失われた状態でしたが、平成22(2010)年、建築当時の材料・工法を可能な限り駆使し、庁舎の1/3の範囲を忠実に復元。

幕末から明治維新にかけての、ピンと張りつめた時代の空気が感じられる歴史的空間として甦りました。(公式ホームページから)

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私は以前、博物館の勉強をちょっとしたことがあったのですが、そのとき、

文化財の保存や再建について地道に地道に、ひたすら地道にそれでもすごい熱意と誠意で取り組んでいる方々の姿を知りました。

そして、

今、箱館奉行所再建にあたり、その方々の再建に向ける拘りにふれ、改めてその方々の誇り高い仕事に感動したものです。

 

五稜郭といえば箱館戦争で榎本武揚で、そして土方歳三と思うのですが、

今回の旅で、五稜郭そのものの建築(武田斐三郎などの人々)や再建にあたっての人々のロマンを知りました!!!

函館本町界隈

函館本町界隈は独特の雰囲気があります。

横浜と神戸、共にアカデミックでおしゃれで品のある街ですが、この本町も流れている空気は同じものだと思いました。

この街の底に沈んでいる歴史が、そうさせるのかなぁ???

異国に憧れ、異国の真似をしながら、ちょっと背伸びして、そして気持ちの上でハイカラを装って、、、そんな人たちが行ったり来たりした活気ある街です。

さて、こんな本町界隈。

まず注目すべきは建物です。

旧函館区街堂

ja.wikipedia.org

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明治40年(1907年8月25日に発生した函館大火により、富岡町町会所、商業会議所が焼失した。岡本忠蔵ら有志は新たな集会所の建設の計画を立ち上げ「公会堂建設協議会」を結成した。建設費は約6万円と試算されたものの資金は1,917円10銭しか集まらなかった。1908年(明治41年)12月になって初代相馬哲平から函館区へ5万円の寄付の申し出があり、明治43年(1910年)、工費5万8,000円余りで完成した。新たな町会所の他、商業会議所事務所、ホテル営業も構想にあったが実現しなかった[1][2]

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多くの人々の寄付で成り立っているんですねzぇ。

函館市民にとっては精神的支柱なんだと、改めて思いました。

建物の中は、歴史を感じさせる重みがそのまま残っていました。

 

 

 

 

本町、ここにはいろんな西洋風建物と教会があって、異国情緒あふれています。

 

また函館は「坂の街」です。

函館山から函館港まで19本の坂があるそうです。

坂の上から港に向かってカメラを掲げている観光客が多く、私もパチリ。

あいにくの曇り空で、広々した港の風を感じる、というには程遠かったのですが、

北海道函館の気候って、本当は「こんな感じなのかな」とも思いました。

こんな空気感の中で人々は生活をし、思いを馳せ、日々を送っていたのだと思うと、

青い真っ青な空より、「まぁいいか、、、」と思い、またパチリ。

 

函館港

函館の歴史というのは実に華やかです。

いつも思うのですが、旅に出て、その地に行って、その場所の歴史に触れ、風土を感じ、人々の生業を見て、「なんと先人の知恵が詰まって素敵なことかぁ。ああああ、、、自分って何も知らないな」とため息をつくのです。

そして函館もまさにそんな感じ。

函館の名所というところに行って、いろんなことを知りました。

まず「金森倉庫」から。

hakodate-kanemori.com

レンガ作りの重厚な建物が港に面して立ち並んでいる風景は、

観光客でなくても、ワクワクするのでは、と思います。

ちょっと小樽に似た感じもするかな、、、なぁんて思いながら倉庫というには、

勿体無いくらい素敵な建物群。

私たちの函館は天気が曇天だったので、写真がちょっと暗くて寂しい感じに写っていますが、

実際は多くの人が行き交い、活気あふれている場所です。

天気がいい時にまた来ることができたらいいなぁ、、、と思いながらカメラでパチリ。

 

倉庫群を通りながら港へと行きました。

函館港は本州と北海道(昔は蝦夷)との重要な交易の場であり、

またペリー来航で、下田と並んで開港された港であり、

青函連絡船の発着港であり、、、

と、いろんな重責を担い、歴史を紡ぐ港だったのだと知りました。

特に驚いたのはここから新島襄がアメリカに渡ったということ。

www.zaidan-hakodate.com

びっくり。

新島襄といえば私の中では京都の同志社大学と、NHK八重の桜の八重さんの夫、くらいだったのですが、実は新島襄って、かなりタフガイだったのですねぇ、、、、ふぅむ。

同志社のキリスト教の静かな雰囲気と結びついて私の中での新島襄像があったのですが、

若かりし頃の新島、なかなか行動的で素敵です!!!

函館

ルスツキャンプ場を後にして私たちは函館へと向かいました。

 

ja.wikipedia.org

函館には学生時代、2回訪れたことがあるのですが、もう忘却の彼方。

微かな記憶は「函館山の夜景が綺麗だった」ということと、

当時、青函連絡船から北海道に来た最初の地だったので、やけに感動していたという「お気持ち」の記憶しかありません。

と、いうことでほとんど函館ビギナーです。 

ホテルは駅と港の中間あたりにとったので、とても便利でした。

夏休みとあって、多くの観光客がいて、どこも人でいっぱい。

都会です。

つい昨日は自然の中で野趣あふれるキャンプをしてたので、ちょっとカルチャーショック。

港や、函館山や街並みなどについては、次の記事で書きます。